1.琉球王国時代 各地に「按司」とよばれる豪族が現れ、彼らが互いに抗争と和解を繰り返す中、1429 年(明応元年)尚巴志が主要な按司を統括し、はじめて統一権力を確立した。これが尚家を頂点とする琉球王国の始まりである。 その後、琉球では独自の国家的な一体化が進み、中国との朝貢貿易を主軸としながら、日本、朝鮮、東南アジア諸国との交流・外交・貿易を通して多様な影響を受けながら発展していった。同様に漢方や鍼灸も多様な影響を受けて発展していったと思われるが、その詳細に関する資料や記録は乏しい。▼首里城正殿 昭和 4 年国宝に指定 【 写 真 提 供 】 那 覇 市 歴 史 博 物 館「琉球王国評定所文書」に灸に関する記録がある。1734 年(雍正 12 年)2 月 21 日【二月廿一日安次富親雲上 佐久真親雲上 仲井真里之子親雲上田湊里之子親雲上 安富祖里之子先年鼓山寺中、灸を以諸病致療治候僧為罷居由候。爾今、右僧存在候ハヽ、渡唐人之内見合、両三人相附可為致伝授候。若、右僧死後候ハヽ、其灸法伝置候人ハ有之間敷候哉、委可被承合候。鼓山寺中、右療治方存之者無之候ハヽ、外ニ茂方々承合、右之灸法不残致伝授候様可被相計候。国中之重宝ニ而大切ニ被仰渡事候条、聊大方ニ被相心得間敷候。右稽古ニ付而、師匠江礼物遣銀等之儀者相応ニ見合可被相渡候。尤、右之療方存之僧者、鼓山東表、山寺之住持ニ而為罷居由候。去ル廿五年成寅年ニ、伊是名親方才符〈府〉ニ而渡唐之砌、足相痛、右僧以灸治、平愈為有之由候。為納得申越候。此旨御差図ニ而候。】琉 球 王 国 交 流 史 近 代 沖 縄 史 料 ( 沖 縄 県 教 育 庁 文 化 財 課 ) 引 用 ・ 以 下 参 考 要約数年前、鼓山寺において、灸を使って様々な病を治療していた僧がいた。その僧侶がまだ生きているようなので、中国へ渡る人の中に、二人か三人が付き添って、その僧侶から灸の技術を学ばせることができるかもしれない。もし、その僧侶が亡くなっていた場合、灸の技術を継承する人がいるかどうか、よく調べること。鼓山寺にその治療法を知っている人がいない場合は、他の場所で確認し、何としてもその灸の技術を完全に伝授してもらうよう手配すること。この技術は国の宝であり、大切に扱うべきもの、少しでも軽んじてはいけない。この修行のために、師 匠に贈り物やお金などを渡すことは、状況に応じて適切に行うべき。その治療法を持っている僧侶は、鼓山寺の東側の山の寺の住職をかつて務めていた。 25 年前の寅年に、伊是名親方が府に渡唐した際、足の痛みをその僧の灸で治療し、完全に治ったと聞いている。このことを納得していただきたく、指示を出した。 注 :「 琉 球 王 国 評 定 所 文 書 」 は 、 琉 球 王 府 の 中 枢 機 関 で あ る 評 定 所 が 保 管 し て いた 行 政 文 書 の こ と で 、 琉 球 王 国 の 歴 史 を 解 き 明 か す 上 で 非 常 に 重 要 な 史 料 。 評 定 所 文 書 に は 、 1660 年 代 か ら 1870 年 代 ま で の 約 200 年 間 に わ た る 記 録 を 含んで おり、 対 中 国 関 係 、 薩 摩 藩 と の 関 係 、 異 国 船 の 来 航 、 漂 着 民 の 保 護 ・ 送 還 な ど 、 さ ま ざ ま な 内 容 が 含 ま れ て い る 。東恩納寛惇著の「医方漫談」に島袋憲紀に関する記録がある。【廿七歳の時に、与世里恕春の門に入つて医道を習つた。一七六九年三月(三十二歳)医道修業の為め上国、その序に、薩摩の命に依り、本国産の本草類を携行納入した。石神元哲·阿野道恕·図師長益·宮内享節等に就いて学び、又本国よりの命に依つて、図師崎検校·伊地知有蘇等について、鍼を学び、勤学十五年、一七八三年の四月に帰国した。】琉 球 新 報 社 編 ・ 東 恩 納 寛 惇 全 集 引 用 ・ 以 下 参 考 要約島袋憲紀は、27歳の時に医術を学び、1769 年 3 月、32歳で医術の修業のため京都へ行き、石神元哲、阿野道恕、図師長益、宮内享節などに医術を学び、また、図師崎検校や伊地知有蘇から鍼治療も学び、 1783 年の 4月に帰国したとのこと。島袋憲紀は15年かけて、医術鍼術を学び47歳で琉球へ帰ってきたのだが、琉球新報社編・東恩納寛惇全集によれば、島袋憲紀が上京してから家族には不幸が続き、十分な仕送りができず、旅先で借金が増え、帰国もできずに困ったとされている。帰国後、島袋憲紀が琉球でどのような活動をしたかについての資料は見つからなかったが、病によっては鍼治療を行っていた ことが推測できる。注 : 島 袋 憲 亮 氏 は 、172 4 年 に 中 国 に 渡 っ て 舌 瘡 治 療 法 の 秘 伝 を 学 び 、 1727 年 に帰 国 。 琉 球 全 島 に 治 療 法 を 広 め 、 1734 年 に は 薩 摩 の 医 師 に も 伝 授 し た 。 上 の 島 袋 憲 紀 氏 は 、 島 袋 憲 亮 氏 の 養 子 。 「ベッテルハイム日誌」にも、灸に関する記録がある。要約ベッテルハイム日誌 1851 年 7 月 8 日本日、警察長官(ポリス・マスター・ジェネラル)である板良敷(イチラジチ)から受けた訪問でもあった。用向きは後頭部にできた腫れ物について私の所見を聞くためであったが、地元の医師たちが極めて悪 (毒)性であると宣告し、すでに灸による治療を施していた。それにより全身の神経系が影響を受けて、頭部全体に耐え難い痛みを引き起こしていたのである。彼は医師たちとその野蛮な治療法をののしり始めた。病気と見れば何でもかんでもモグサに火を点けて人の体にのせやがると非難したのである。その腫れ物はメスで切開する必要はなく、軟膏や硬膏を当てておけば数日で治るとはっきり言うと、彼は本気で驚いた。メスを使うことに対しては、大量に出血するだろうと医師たちから警告を受けたことで臆病心も抱いていた。板良敷が薬剤を使うという私の助言を受け 入れたので、私は硬膏を当て、明後日また来るようにと言い、それまでに腫れ物は自然に破れているであろうと自信をもって告げた。琉 球 王 国 交 流 史 近 代 沖 縄 史 料 ( 沖 縄 県 教 育 庁 文 化 財 課 ) 参 考 注 : バ ー ナ ー ド ・ ジ ャ ン ・ ベ ッ テ ル ハ イ ム (18 11 年 - 1870 年 2 月 9 日)は 、 日 本に 派 遣 さ れ た キ リ ス ト 教 宣 教 師 。 ま た 沖 縄 県 地 域 最 初 の プ ロ テ ス タ ン ト 宣 教師 で も あ る 。 渡名喜村略史にも、灸に関する記録がある。要約1815 年、渡名喜島の地頭代である南風原親雲上は、座敷の位を受け、副償として上布三疋を賜った。その理由は以下の通りであった。南風原親雲上は、あらかじめ薬材を貯蔵し、病気になった人々を治療していた。彼は灸法や毒蛇の治療法にも精通しており、島全体に貢献していた。 また、麻疹が流行した際には、自分の米を分け与え、特に貧しい人々に支援を …。沖 縄 県 立 博 物 館 総 合 調 査 報 告 書 渡 名 喜 村 略 史 参 考 琉球王国時代、鍼に関する資料は少ないが、灸に関しては、沖縄県公文書館や沖縄県博物館などが貯蔵している古文書 や資料などでもよく見かける。以上のことからも分かるように、灸法は、国の宝として大切に守られ、病の治療に広く用いられていたことを知ることができる。2.明治時代明治時代に入ると、政府の方針で西洋医学が導入され、漢方も含めた日本の伝統医学は非正統医学となり、なんとか按摩や鍼灸治療は営業資格として残りはしたが、視覚障害者を対象としたもの 。一方灸は民間療法として広く用いられ、沖縄ではヤブーと称された灸名人が昭和初期まで地域住民の健康管理に貢献していた。注 : ヤ ブ ー と は 、 灸 や 自 然 の 力 や 霊 的 な 力 を 使 っ て 病 気 や 怪 我 を 治 療 す る 沖 縄 に古 く か ら 伝 わ る 伝 統 的 な 療 法 師 。 1911 年(明治 44 年)に内務省令第11号として鍼灸を全国統一的に管理するために「鍼術灸術営業取締規則」が初めて制定された。取締規則制定の大きな目的は、それまで各地方に管轄を一任していた鍼灸術を全国統一の免許鑑札にすること。一方で盲学校の鍼灸教育に関しては、福祉的救済の観点から近代後期にはすでに公教育として環境整備が充実していた。3.那覇連合会結成1924 年(大正 13 年)に沖縄鍼灸那覇連合会が結成。沖縄における鍼灸師の組織化は、各地の鍼灸師会が合同して沖縄鍼灸那覇連合会を設立したことに よって始まる。初代会長は、小野佐一郎 氏。 二代目に宮良長和氏、三代目に廣木起弘氏、四代目に外間守繁氏、五代目に田仲幸吉氏、六代目に廣木起弘氏と続く。 三代目並びに六代目会長は、廣木起弘氏となっているが、日本鍼灸雑誌では新垣起弘となっており、後に改名したか、 もしくは通称名を使用していた可能性がある。那覇が那覇市になったのは、1921 年(大正 10 年)5 月 20 日。 沖縄鍼灸那覇連合会が発足したのが 1924 年(大正 13 年)。 日本鍼灸雑誌の記録によると、1927 年(昭和 2 年)9 月に第6回秋期総会が行われたという記録が有ることから、逆算すると会の結成は 1924 年 3月であったと推測することができる。注 : 日 本 鍼 灸 雑 誌 (大 日 本 鍼 灸 医 会 編 )は 、 191 2 年(明 治 45 年 ・ 大 正 元 年 )か ら1939 年(昭 和 14 年 )ま で 発 行 さ れ た 鍼 灸 の 専 門 誌 。 ◀当時の那覇市役所 【 写 真 提 供 】 那 覇 市 歴 史 博 物 館 注 : 町 の 中 心 部 に あ っ た 那 覇 市 役 所 は 、 1919 年(大 正 8 年 )に 建 て ら れ た も の で 、ス パ ニ ッ シ ュ 様 式 で 、 中 央 部 に は 5 階 建 て の 塔 が 設 け ら れ て い た 。 こ の 塔 か ら 毎 日 、 午 前 6 時 、 正 午 、 午 後 5 時 の 3 回 、 時 を 知 ら せ る 鐘 が鳴り響 い て い た 。 新聞広告▼大正 13 年 7 月 18 日発行の琉球新報に小野鍼灸治療院の広告がある。 ▼沖縄朝日新聞(宮城真治資料)には、大正 14 年 1 月 29 日の広告に「鍼灸治療開業・鍼灸術師宮良長智・久茂地大通り大湾小路大湾」とある 。 鍼灸師会結成当初の記録は残ってないが、その頃の新聞を見るに、鍼灸師たちは何らかの形で活動していたことを 伺うことができる。1927 年(昭和 2 年)9 月 30 日:沖繩縣鍼灸師會六回春季總會を前乏毛通り三杉樓にて開催。 来賓に、県衛生課・那覇警察署・各新聞記者が列席。 引き続き、来賓、会員の親睦会を開催。注 : 沖 縄 県 鍼 灸 師 会 が 総 会 を 行 っ た 三 杉 樓 は 、 那 覇 市 の 辻 と い う 花 街 に あ っ た 琉球 料 理 の 伝 統 を 忠 実 に 守 り 古 く か ら の し き た り に も 通 じ た 格 式 の 高 い 料 亭 。 秋期総会では、沖縄県鍼灸師会という名称で総会を行っており、かなり早い時期に名称を沖縄県鍼灸師会に改めた可能性がある。 1928 年(昭和 3 年)3 月 30 日に沖繩縣鍼灸師會第一期滿了し、第二期七回春季總會を真教寺にて開催。 會長に廣木起弘氏、副會長に外間守繁氏が就任。注 : 真 教 寺 は 現 在 の 那 覇 市 西 に あ る 真 宗 大 谷 派 の 寺 院 。 1884 年 田原法水 氏 に よっ て 開 山 さ れ た 。 沖 縄 戦 で 壊 滅 的 打 撃 を 受 け た が 、 1972 年 に 再 建 さ れ た 。 全国鍼灸医家名鑑(帝国鍼灸医報社)昭和 14 年発行には、沖縄県に10名の名前が掲載されている。以下に全国鍼灸医家名鑑に記載されている名前を書き記しておく。石森正孝、國吉景二、外間守榮、田場兼森、廣丈起弘、金城里安、徳嶺鍼灸院、石塚鍼灸院、渡久地政松、金城充榮それ以外に全国鍼灸医家名鑑に記載はないが、地域で名の知られた鍼灸師として、宮良長和、田仲幸吉、徳嶺朝義、徳原盛一、久場長仁、首里市の花城ターリー、大里村銭又の屋宜グヮータンメー、浦添村港川の宇座タンメー、大里村与那原の我謝グワーウシータンメーなどの鍼灸師が地域住民の治療に当たっていたと言われており、当時はかなりの会員がいたのではないかと推測することができる。注 : 全 国 鍼 灸 医 家 名 鑑 は 、 1939 年(昭 和 14 年 )に 帝 国 鍼 灸 医 報 社 か ら 出 版 さ れ た本 で 、 当 時 の 鍼 灸 医 家 の 名 前 、 所 属 、 住 所 、 資 格 、 経 歴 な ど の 情 報 を 収 録 して い る 。 つづく・・・・・≪更新日:2024年12月11日≫